同じ歯科医師である依田州弘先生に誘われて、2001年8月モンゴル医療奉仕団に参加することになる。医師2名・歯科医師4名・看護士3名・学生1名の合計10名。私にとって初めての海外ボランティア活動である。不安と期待いっぱいで一体モンゴルはどんな国なのか調べてゆく。
北京の北西、中国とロシアに国境を持ち、広さは日本の4倍、平均高度1580m。西北部は森林・湖・河と4000m級の高山がつらなり、東西部はゴビ砂漠、他は大草原が広がっている。
気温の年格差は大きく最低気温はマイナス40度〜最高気温は40度に及ぶ変化の中で、首都ウランバートルの8月の平均気温は17度と快適な季節である。人口はわずか234万人、そのうちウランバートル(赤い英雄の意味)は、80万人です。1972年日本と国交樹立、1990年、海部元首相初訪問により8億円の医療援助等で、親善が深まってゆく。
社会主義経済から自由経済への変動期を通っており貧富の格差が大きく、捨てられた子供、ホームレスも多い。今は日本のような国民健康保険が導入され、医療費の4割を患者さんが負担するようになったため、貧しい人達は病気になっても病院へ行くことができないという問題がでてきたという。また、医療施設の技術的な遅れがあり、最新の医療機材が導入されても使いこなせる人材が育っていないという課題もあるようだ。ウランバートル市郊外の孤児院「テムジンの友塾」を訪問し、村の人々に無料診療を行うことにより、国の実状を知り多くのことを考えさせられることになる。
通貨は1us$=1014Tg、100円=1000Tg。サラリーマンの平均月収は8000円と貧しい。
舳松洋先生(東邦大学医学部同窓会長・医療奉仕団団長)から依田先生に一冊の本「ウランバートル捕虜収容病院」を通して春日行雄氏を紹介された。氏は島根県出雲出身、ハルピンの満軍軍医学校卒、のちモンゴルへの帰途終戦、モンゴル軍の捕虜となり、シベリア経由モンゴル抑留2年間。昭和38年日本モンゴル協会を設立、平成9年孤児院「テムジンの友塾」設立、羊を放牧し、養鶏し、自給の生活の中から子供達の自立心を養っている。
8月4日、日本を旅立ち数時間後に機内から見たモンゴルは、“緑と青”“草原と空”の世界だった。
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現地では、モンゴル人の通訳2人・医師1人が出迎えてくれ、バスで宿泊するホテルへ向かう。30年前頃ソ連の援助で作られた火力発電所を横に見てシベリア鉄道を渡る。でこぼこの道路、所々にゲルを見ながら市内に入る。5〜6階建ての飾り気のないアパートメント、56年前、日本人捕虜によって建設されたという国会議事堂やオペラハウス、また国立大学の前を通ってゆく。日本とは違う異国の雰囲気を感じる。遊牧民生活から都会へと30分ほどの時間で目の前が変化していくのに驚いた。
ホテルチェックイン後、市内で夕食をとる。通訳の2人とモンゴルの産婦人科医・内科医とバスの運転手も加わりモンゴル料理に舌づつみをうつ。出てくるどの料理も羊肉で、40度モンゴルウォッカが心地よく胃袋に浸透する。明日からの治療の事、モンゴルの医療事情など話し合い時が過ぎていった。スペアリブのにおう手で、水・ウォッカ・食料を買い込み帰る。(現地の水は気をつけよと言われている)一息入れたいなとシャワーを浴びようとしたが、お湯が出ない。草原の水は冷たく身体にこたえた。
8月5日、バスで西約40km、ウルジット村の孤児院「テムジンの友塾」へ出発。
今日は一日、周辺住民の医科・歯科検診治療も行うことになら。ホテルから20分も走ると、見渡す限りの草原と丘に時々、馬が群れをなし、牛がいて、所々にゲルが点在している。バスはオバー(天の神を祭った場所)で休み、旅・仕事の無事を祈った。1時間も走った時、遠くにこいのぼりが見えてきた。そこが「テムジンの友塾」だ。近所の人達から「こうのぼりのせいで雨が降らなくなった」と一日に3回も苦情がきたという。孤児達を元気づけようと立てたが、家畜の大被害をもたらした昨年からの干ばつの原因にされてしまったのだ。
孤児院に着くと春日先生と子供達15人が日本の歌「もしもしかめよ」「こいのぼり」を歌って歓迎会をしてくれた。私達も持っていったプレゼントを一人一人にあげると大喜び。すぐに部屋の中で治療の準備に入る。日本から寄贈されたユニットはあるが、水もエアーも電気も通じない。ただ椅子の代わりになるだけで、持っていった機材・器具・薬品をテーブルの上に準備していくと、そこはまさに野戦診療所の始まりだった。モンゴル人医師2名も参加し、歯科は4名で、予診・予防・充填・抜歯・義歯修理を分担した。看護士2人がアシストにつき通訳1人つきっきりとなった。
予診70名、予防20名、治療50名(充填・抜歯・義歯修理)、歩いて数時間、馬に乗って数時間、家族、兄弟、姉妹で部屋いっぱいになる。朝10時スタート、1時間2時間過ぎても私達の目の前から待っている患者さんが減らない・・・・・最初は友塾の子供達の第一永久歯の虫歯の治療が多い。下顎前歯と歯肉の間に硬く沈着している歯石のため、歯肉が赤く腫れ上がり炎症を起こしている。(株)ライオンから寄贈された歯ブラシを手渡して担当はブラッシング指導に声がはずむ。
12時過ぎたら村の人達は家族で押し寄せてくる。「困っている所はありますか?」予診と同時に今日やってあげれる治療を記入し、担当に回していく。「あそこもここも」と言われると情が湧いてきて内容が多くなる。部屋中熱気で火がついたようだ。ほっておけば歯の神経が死んでしまうようなひどい虫歯が多い。なんとか充填処置をしてあげたい。「痛くて咬めない抜いてくれ!」という人が来る。
次は、義歯がゆるゆる、ぬけたまま義歯の必要な人達。私達は、予定時間を越えてやれるところまでやった。村の人達が手を合わせて帰っていかれる。昼食も食べずに最後の患者を診終わり、時計を見ると5時を過ぎていた。開業した頃、激しく燃えていた診療を久しぶりに思い出した。
今回初めて(株)ヨシダ(歯科機材・歯科材料店)の蒲田支店長佐山さんからの30kgのポータブルユニットを貸していただいたが、電圧が日本と違うので秋葉原で変圧器を購入し持っていった。300Vから2回変圧して実際使用することができて、非常に役立った。今までモンゴルを訪問した歯科医療団は、ほとんど検診だけで、何もしてくれないという思いがつのっていたようだ。実際虫歯を削って充填したのは、私達が初めてらしい。「村人がとても感謝している」と春日先生からお聞きして、モンゴルに来て本当に良かったと感じた。
ふと外を見ると珍しく降った雨が上がり大きな虹が見えた。大空から大地にかかった七色の美しい虹を見ていると疲れも忘れ、身体中に熱いものが流れるのを感じた。
夕食は私達のために羊1頭をほふってモンゴル壷で石焼にした手料理でもてなしてくれた。何万年も変わらぬ羊料理法で、モンゴル人にとっては最高の料理であり生命を感じて食べるのである。
8月6日、ウランバートルから東北東100kmにある、テルリジ国民休暇村に向かう。なだらかな森林に四方を囲まれ清流が流れるモンゴル大草原の中を、バスで3時間。その日初めて宿泊するゲルに興味が湧く、真ん中に薪を入れる暖炉があり、周りに木のベット・机と小さな椅子・家族の写真・鏡などいろいろあるが、トイレも風呂もない。(夜は星夜を見上げて用を足す。サソリにご注意!)
昼は馬に乗り、モンゴル人の生活を体験する。初心者である私達は恐る恐る馬に近づく。数分、注意と説明を受けすぐに馬に乗りいよいよ4時間のトラッキングツアーに出発。森林を越えて、河を越えて、1時間もするとそれぞれが草原を自由に走るのだ。行けども行けども大草原・・・生きている価値観さえ変わってしまうほどだ。
年に一度ナーダムという夏祭りに子供の馬の競争がある。スタートから何10kmという道のりを自分達の力だけで唯一ゴールを目指して走る。大人になるための第一歩である。私達もインストラクターの子供に守られてツアーをしたが、ここでは子供は先生であり天使であった。
夜は私達とモンゴル人通訳とモンゴルの医師、その友人達がゲルに集まった。日本とモンゴルの歌の交換会、馬乳酒をかわしながらまたウォッカで乾杯する。夜遅くまで楽しいひと時を過ごす。
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翌早朝、内股とお尻はすりむけて痛いが、あの感動をもう一度と馬に挑戦する。前日の乗馬よりずいぶん上達したらしく、馬と一体になり風になれた様な気がする。背中に朝日を受けて「ローレンローレンローレン、ローハイ」身体中からリズムとなって西部劇のロウハイドを歌いながらいつの間にか競争して走る。夢中になっていると、カラ馬が私達を追い越していった。後ろを振り向くと落馬した仲間が手を振って助けを求めている。顔いっぱいすりむいていたが、大怪我はなくほっとした。馬から降りるとさすがに膝がガクガクして立てない、皆が待っている・・・昼前に出発しウランバートルに戻る。
昼から当地の寺院・歴史記念館・一般開業医・総合歯科医院を見学し、夜は人で賑わう繁華街を探索した。濃厚で充実した4日間を思い出し、医療奉仕団の皆でモンゴルの旅で最後の夕食を賑やかにした。この日は別の地区にホテルを変更し、初めてお湯でシャワーを浴びることができた。
4泊5日のモンゴルの旅が終わった。
風呂に入れなくて辛いこともあったが、日本の平和で便利な都市生活に慣れすぎている自分に気がつく。
私達は今一度原点に帰る必要があるのではないか?と。
モンゴルは緑の草原と青い空の国であり、モンゴル人は日本人と共通する何かを持っている民族である。文明は急速に発展しなくても、人間と自然の共有を感じられる国である。
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